Jan
30
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英国ロイヤル・バレエ団とは

ロイヤル・バレエ団(The Royal Ballet)は、イギリスの王立バレエ団です。
世界三大バレエ団の一つともいわれます。

他の世界三大バレエ団は、
フランスのパリ・オペラ座
ロシアのマリインスキー・バレエ
の2大バレエ団となります。

約100名のダンサーを擁し、ロイヤル・オペラ・ハウス内に専用の施設を持っています。
公式のアソシエイト・スクールはロイヤル・バレエ・スクール(Royal Ballet School)です。
姉妹カンパニーとしてバーミンガム・ロイヤル・バレエ(Birmingham Royal Ballet)があります。それぞれ独立して活動しているようです。
英国ロイヤル・バレエ団のプリマ・バレリーナ・アソルータは、故マーゴット・フォンテーン女史です。

サドラーズウェルズバレエ団は、帝室ロシアバレエの中心的なレパートリーであったマリウス・プティパやレフ・イワノフのバレエを、ソ連以外の国で初めて上演したバレエ団のひとつ。
しかし、その形成期には、帝室ロシアバレエの中心的なレパートリーであったマリウス・プティパやレフ・イワノフのバレエを上演していました。
ド・ヴァロワは、これらのバレエを上演するために、元帝国バレエ団のレジスターであったニコラス・セルゲイエフを起用しました。
セルゲイエフは、プティパの『眠れる森の美女』、プティパとイワノフの『白鳥の湖』と『くるみ割り人形』、プティパとチェクチェッティの『コッペリア』、プティパの『ジゼル』などを上演しました。
これらの作品は、20世紀初頭にサンクトペテルブルクで作成された振付譜を参考にして作られたものです。
それ以来、ロイヤル・バレエ団のレパートリーとなっています。
現在、ロイヤル・バレエ団では1984年にピーター・ライトが制作した「くるみ割り人形」を使用しています。
この作品にはセルゲーエフの譜面が一部使用されています。
セルゲイエフがロンドンで行ったこれらのバレエの再演は、伝統的なクラシックバレエのレパートリーの礎となったと考えられており、世界中で再演されるきっかけとなりました。
セルゲイエフは、世界的なバレエの普及に最も貢献した人物の一人であると考えられています。
セルゲイエフの振付譜などの資料は、ハーバード大学図書館の演劇コレクションの一部であるセルゲイエフ・コレクションに保存されています。

Jan
25
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城下町「萩」

萩城下町

萩城下町(はぎじょうかまち)は、長州藩 (萩藩)の萩城を中心に形成された城下町。
1604年(慶長9年)に関ヶ原の戦いに敗れ、周防国・長門国2か国に減封された毛利輝元。
彼は萩城と並行して建設を進め、長州藩の拠点として機能しました。
「萩城跡」、「萩城城下町」(いずれも国の史跡に指定)、「堀内地区」(重要伝統的建造物群保存地区)がよく当時の面影をとどめています。
世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」に登録されてもいます。

世界遺産としての「萩城下町」は、3つの資産から構成されています。

Kaimagari

taka, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

萩城跡

指月山の山麓にある平城と山頂にある山城で構成。
建物はすべて喪失しましたたが、雄藩の城として歴史上重要。
よく旧規模をとどめていて縄張も精巧ですね。
城郭史上重要な遺跡とされました。
1966年国の史跡に指定されてます。

萩城城下町

萩城三ノ丸中総門の東外を、東西に通ずる中心路である呉服町の通り(通称御成道)があります。
それと、その南を東西に走る慶安橋筋の2本の東西路に直交する菊屋横丁・伊勢屋横丁・江戸屋横丁に囲まれた区域を指します。
萩藩御用達の旧家、幕末に活躍した侍屋敷等の面影が残りますね。
1967年に国の史跡に指定。
青木周弼の住宅等も含まれます。
一般には「武家屋敷地区」とも称されますが、正確には堀内地区が侍屋敷地区にあたります。

堀内地区

萩城三の丸のほぼ全域に相当する地域です。
藩の諸役所や上級藩士の侍屋敷が所在していました。
1976年に重要伝統的建造物群保存地区として選ばれました。

Jan
25
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サンクトペテルブルク

サンクトペテルブルクは、ロシア西部のネヴァ川河口デルタに位置する都市。
そして、レニングラード州の州都です。
人口は約540万人です。
首都モスクワに次ぎロシア第2の都市となります。
実は1917年までロシア帝国の首都でした。
そしてなんと、大阪と姉妹都市です。

サンクトペテルブルクは、ピョートル大帝による建都以来ロシア最大の文化都市として発展してきました。
なので特に帝政時代にはこの都市を舞台に多くの文化人が活動してたようです。
詩や小説などの題材としても扱われてました。
『青銅の騎士』を物した詩人で作家のアレクサンドル・プーシキンという人がいます。
いわゆる「ペテルブルクもの」を物したウクライナ出身の作家ニコライ・ゴーゴリ、『罪と罰』を物したフョードル・ドストエフスキーなどがその代表。
また、イワン・ツルゲーネフの作品にも描かれるように帝政時代のモスクワはひどい「田舎」扱いされてました。
ペテルブルクで活躍することこそがエリートの絶対条件であると看做されていたのです。
音楽家や画家もペテルブルクで活動するのが基本でした。
特に帝政末期ペテルブルク以外で活動するようになった芸術家の一派があります。
その一派は「移動派」と呼ばれてました(ペテルブルク以外を巡業する派ということ)。
こうしたことから、ペテルブルク市民はこの都市の高い文化水準に誇りを持っているようです。

Saint Petersburg in Russia (special marker)

TUBS, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

Jan
24
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『芝浜』という古典落語のあらすじ

『芝浜』という古典落語があります。
三遊亭圓朝の作と言われていますが真偽不明。3代目桂三木助の改作が有名です。

そもそも「芝浜」とは、江戸時代の入間川のを挟んだ東海道の芝橋から薩摩藩邸までの間にあった海岸の網干場だったところで、現在の港区芝4丁目の第一京浜の南側にあたります。
入間川(いりあいがわ)というのは、現在は埋め立て地。そして全国で2番めに短い国道の130号です。

あらすじ

天秤棒一本で行商をしている魚屋の勝五郎という人がいました。
彼は、腕はいいものの酒好き。
で、仕事でも飲む事にかまけて売り物の魚を腐らせるなど失敗が続きます。
次第に客の信用と働く意欲を失い、借金も嵩んで自堕落な生活に陥っていきます。

その日も女房に朝早く叩き起こされました。
嫌々ながら芝の魚市場に仕入れに向かいます。
しかし時間が早すぎたため市場はまだ開いていない。
誰もいない夜明けの浜辺で顔を洗います。
煙管を吹かしているうちも、足元の海中に沈んだ革の財布を見つけました。
開けてみると中には大金が入ってました。
勝五郎は「これで一生遊んで暮らせる」と有頂天。
自宅に飛んで帰り、さっそく飲み仲間を集めて大酒を呑みます。
翌日、二日酔いで起き出した勝五郎に向かって女房が言います。
「こんなに呑んで支払いをどうする気なの?」
勝五郎は「昨日拾った財布の金で払えばいいだろ」と答えます。
が、女房は、
「そんな物は知らない、お前さんが金欲しさのあまりに酔ったまぎれの夢に見たんじゃないの?」
つくづく身の上を考え直した勝五郎は「これじゃいけねえ」と一念発起、酒を断って真面目に働き始めます。

そうして仕事に打ち込むうちに久しく忘れていた商いの楽しさを思い出します。
3年後には表通りにいっぱしの店を構える事ができました。
借金を完済して生活も安定し、身代も増えました。
そしてその年の大晦日の晩のことです。
勝五郎は妻に対して献身を労い、頭を下げます。
すると女房は、3年前の財布の件について告白を始め、真相を勝五郎に話します。

あの日、勝五郎から拾った大金を見せられた女房は困惑しました。
十両盗めば首が飛ぶといわれた当時、横領が露見すれば死罪です。
長屋の大家と相談した結果、大家は財布を拾得物として役所に届けました。
女房は勝五郎の泥酔に乗じて「財布なんて最初から拾ってない」と言いくるめる事にしました。
時が経っても落とし主が現れなかった。
役所から拾い主の勝五郎に財布の金が下げ渡されました。
しかし女房はその事で亭主が元の木阿弥になる不安から今まで言い出せずにいました。
彼の「客が自分の売る魚をおいしく食べてくれるのが心底嬉しい」という言葉にようやく「今のこの人なら大丈夫だ」と安堵します。
そして真相を話す事を決意したといいます。

事実を知り、例の財布を見せられた勝五郎はしかし女房を責める事はありませんでした。
道を踏み外しそうになった自分を真人間へと立ち直らせてくれた女房の機転に強く感謝します。
そして女房は懸命に頑張ってきた夫を労い、「久し振りに酒でも」と勧めます。
始めは拒んだ勝五郎でした
が、やがておずおずと酒をついだ湯呑みを手にします。
そして一旦湯呑みを口元に運びますが、不意に手を止めます。
「よそう。また夢になるといけねえ」と。

Jan
24
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相馬野馬追とは

相馬野馬追(そうまのまおい)とは、福島県相馬市をはじめ、浜通り北部で行われる、3つの神社の祭礼。
その神社は次の3つ。
相馬中村神社
相馬太田神社
相馬小高神社

それは、
馬を追う野馬懸、
南相馬市原町区に所在する雲雀ヶ原祭場地での甲冑競馬と神旗争奪戦
街を騎馬武者が行進するお行列
といった神事からなります。
ちなみにこれら神事は重要無形民俗文化財に指定されてます。

このイベントの起源は、、相馬氏の遠祖である平将門が、領内の、現在の千葉県松戸市に相当する場所に野生馬を放し、敵兵に見立てて軍事訓練をした事に始まると言われています。
鎌倉幕府成立後はこうした軍事訓練は取り締まられたものの、相馬野馬追は名目上神事ということで継続されたようです。

The Soma Nomaoi 2005-5
PekePON, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons